みなさん,こんにちは。
豆蔵ソフト工学研究所の所長の羽生田栄一(はにゅうだ えいいち)です。

早いもので,豆蔵ソフト工学ラボ(愛称:豆蔵コラボ)における情報発信も3回目を迎えました。その間,米国経済に単を発した世界同時不況は日本にも大きな影響をじわじわと及ぼしていますが,日本政府は自民党の求心力の低下と相俟ってしっかりとしたメッセージを国民に対して世界に対して発信することができないでいるようです。言葉に対する信頼が失われています。

ソフトウェア工学における最大の関心事は,『意味のあるコミュニケーション』と『複雑さの管理』です。前者のために様々な「見える化」のためのモデリング技術(含む文書化技術)があり,後者のために「オブジェクト指向」に代表されるアーキテクチャ設計技術があります。さらにそれらを総合して,人と人・人と物・物と物の間の意味のあるコミュニケーションとその時空間にまたがる複雑さをトータルできちんと制御していくための『プロセス』が必要であり,組織や問題解決の目標に向けてプロセスを運営していくための『マネージメント』が求められます。

第1の関心事であるコミュニケーションのむずかしさを端的に表わす有名な6コマ漫画があり,ご存知の読者も多いでしょう。(University of London Computer Center Newsletter, No.53, March 1973(Pre-1970 cartoon; origin unknown))

University of London Computer Center Newsletter, No.53, March 1973 (Pre-1970 cartoon; origin unknown)
University of London Computer Center Newsletter, No.53, March 1973(Pre-1970 cartoon; origin unknown

1コマ目は,元々の発注者の考えていた無意味に要求の多いブランコ(のイメージ),2コマ目は,それをヒアリングしてシステム要件としてまとめた結果,3コマ目は,その要件からアーキテクチャをデザインした結果の動かないブランコ(のモデル),4コマ目は,その設計のとおりには動かせないことに気づき現場でやっつけで実現した納品物としてのブランコです。そして5コマ目は,使えない納品物を保守フェーズで改修して無理やりごまかして一見使えるようにしたブランコ。最後6コマ目は,そもそも発注者が本当に必要だったのは非常にシンプルで素直な設計のロープ1本とタイヤの簡易ブランコだった,というものです。この最後のコマのパンチが非常に利いています。

この漫画におけるブランコは,ソフトウェア開発におけるコミュニケーションのむずかしさを要求,設計,実装・テストの各局面とともに体感させてくれる優れたメタファーです。

問題解決に向けてプロジェクトを正しく前に進めるためには,目標に向けて関係者の全員が,真剣にコミュニケーションに向き合わなければならないことを教えてくれます。言い方を代えれば,お互いに信頼に足る言葉(モデル)を発しましょう,ということになります。

このブランコのメタファーは必ずしも伝言ゲームにおいて正しく厳密に情報が伝わるようにしよう,といっているわけではないということも大事です。正しく伝わるだけでは最終的なブランコはゴテゴテした乗りにくい3段のブランコのままです。真に必要なことは,各関与者が自分の想像力を働かせて真剣に他の関係者と「意味のあるコミュニケーション」を行うということです。そのためにお互いの信頼関係や,コミュニケーションの手段である「言葉=モデル」に対する信頼も必要になります。

最近,世界的に読者を獲得している小説家の村上春樹氏がイスラエルの文学賞である『エルサレム賞』を受賞しました(バートランド・ラッセル,アーサー・ミラー,ホルヘ・ルイス・ボルヘス,ミラン・クンデラ,スーザン・ソンタグら錚々たる文学者・批評家が過去に受賞しています)。一部では近年のガザ地区へのイスラエル空爆にプロテストするために受賞を断るのではないかとみられていました。しかし村上氏は「それでも私は最終的に熟慮の末、ここに来ることを決意しました。気持ちが固まった理由の一つは、あまりに多くの人が止めたほうがいいと私に忠告したからで す。他の多くの小説家たちと同じように、私もまたやりなさいといわれたことのちょうど反対のことがしたくなるのです。私は遠く距離を保っていることより も、ここに来ることを選びました。自分の眼で見ることを選びました。」と語るように受賞スピーチの中でしっかりと言葉を通してイスラエルの行為・パレスチナの行為に対する村上氏自身の考えを表明することを選んだのです。

ここには,小説家という言葉に対して信頼を持たなければ成り立たないプロフェッショナルの矜持が,「卵と壁」という一種ユーモアを含みかつ実は厳しいメタファーを通してさりげなく提示されています。パレスチナ問題がそんなに簡単に解決するとはまったく思っていないからこそ,言葉に対する信頼を取り戻していかなければ,私たちは解決に向けて1mmでも前に進むことはできないと村上氏は考えているのだと思います。

村上春樹のエルサレム賞の受賞スピーチ全文(英文および日本語訳)

今回の豆蔵ソフト工学ラボの記事を村上春樹氏の言葉をめぐる冒険と対比するのはおこがましいですが,少しでも産業界のお役に立てるよう,言葉を通して発信を続けていこうと襟を正した次第です。さらに言えば,わたしたちが作るITシステムが村上氏のいう「システム」となって我々を蝕んでいかないように自戒することも含めて非常に考えさせられる受賞スピーチでした。