栄養素の欠乏によって死に至る場合があることを、現代では誰も疑いません。その昔、ある病気を引き起こすのは病原体だと考える人々は、その原因が栄養素の欠乏であるという意見を無視していました。「何か悪いものが存在する」という考えにとらわれ、「必要なものが不足している」という考えを持てなかったのです。また、栄養欠乏症に気づいたら気づいたで、欠乏症をめぐる学者同士の争いもあったようです。専門家の意見はほどほどに聞いて、現場で得られる知恵を大切にしたほうが生き残る確率が上がるかも知れませんよ!

脚気論争とは

その昔日本でよく見られた脚気がビタミンB1の欠乏症だとわかるまで、国内外で研究と同時に、様々な争いが繰り広げられていました。日本では明治時代に、海軍の軍医だった高木兼寛さん(以下、兼寛)が航海食に洋食と麦飯を導入し、脚気が減少した結果を報告しています。兼寛は「原因は食べ物に関係している」という強い信念を持っており、研究はかなりいい線を行っていたのですが、脚気の原因を「蛋白質の欠乏」としていました。そのため東京大学医学部から批判され、兼寛の説が間違っている証拠まで出されたりとさんざんな目に...結果を出しているだけに、実に惜しいです。今回はこの脚気を巡る物語と、そこからソフトウェア界が学べることについて考えてみたいと思います。

兼寛は海軍の遠洋航海という現場で、洋食を食べている士官の脚気の症状が、白米中心の和食を食べている水兵の症状より軽いことに気がつき報告しました。そこで海軍は洋食を標準食に設定したのですが当時の水兵はパンや肉を好まず、強制的に食べてもらうのは難しかったようです。そうこうするうちに、白米の代わりに麦飯を支給すると脚気になる人が減少することに気づきます。洞察力がありますね。刑務所では経費節減のため米の半分を大麦にしたところ、兼寛の報告と同様に脚気の症状が改善されるという現象が見られ関係者は驚いたのだとか。

ちなみに当時、船員の食事は身分によって炭水化物と蛋白質の割合が決まっていました。身分の高い士官のほうが蛋白質の割合が多かったため、兼寛は「脚気の原因は蛋白質の欠乏」という仮説を立てたのです。兼寛は結果を出すための妥当な方法として麦飯と洋食を推奨したわけですが、残念なのは海軍で実践した結果は、不足しているビタミンB1を全て補うには麦の配合が足りなかったことと、副食(おかず)中のビタミンも不足していたため、脚気が撲滅されたわけではなかったことでしょうか。

一方陸軍は、麦飯と洋食で脚気が治るという説に懐疑的でした。脚気には病原体(脚気菌)が存在するはず、という考えが支持されていたようです。陸軍は兵食に白米を中心とした日本食を採用。次第に脚気患者が増えてくると陸軍でも麦飯の導入が稟議にかけられますが、森林太郎(森鴎外)さんらが反対したと言われています。陸軍では脚気が大流行し、現場の軍医の独断で麦飯が支給されたりもしたようです。

学問としての正しさか、現場で得られた結果か

非常に簡単で、一部分だけですが、脚気論争は以上のような物語です。「原因は何なのかという学問上の疑問には答えられないものの、麦飯で脚気の症状が改善されるという結果はある。」という状態の方法を採用するか、しないか。陸軍側の根拠のないものを安易に受け入れない姿勢は悪くない気もしますが、有識者の判断によって大勢の人が亡くなってしまったのだと思うと考えさせられます。

誰かが新しいアイデアを出した時など、ソフトウェアの世界でも「根拠が薄い」という話になることがあります。もちろん根拠は必要ですが、他人の研究結果を安易に「根拠」としている人も多いのではないでしょうか。脚気論争を知ると、身近な人が経験から得た方法も、頭から否定せず柔軟に考えてみる姿勢が大切だなと思えてきます。他人の考え方が違うと思うのなら、批判する前に自分で結果を出してみるのが「協調」を実現する近道かもしれませんね。

もしプロジェクトを良くするための方法を説いている人が、他人の悪口ばかり言っていたり、自身が携わったプロジェクトが上手くいかなかった理由を他人のせいにしていたり、「プロジェクトはうまくいかなかったけれど、ソフトウェア工学に基づいた正しい意見を主張し続けたことが私の誇りです!」なんて言っていたらどう思いますか?なんだか信用できないので、一緒に仕事をしたいと思わないのでは。「こういうことをしたら上手く行きました。」「これは上手くいきませんでした。」という自身の経験を語るほうがずっと役に立つように思います。

上には兼寛がやや不運で自説の根拠が薄かったことしか書いていませんが、ご活躍された方です。念のため。「病気を診ずして病人を診よ」という名言を残していらっしゃいます。研究のための医学ではなく、目の前の患者を治す能力を身につけよ、ということです。ソフトウェアの世界に当てはめるのであれば、研究のためのソフトウェア工学ではなく、プロジェクトを良くするためのソフトウェア工学を身につけよ、ということでしょうか。

参考文献

次回は

以前お客様と簡単でおいしい料理について話していた時、「松尾さんのおすすめは何ですか?」と聞かれ堂々と「刺身です!」と答え絶句されたことがあります。刺身を買うことは料理ではないと思われたそうです。確かにその通りです。次回は、怠け者でもできる実践栄養学をご紹介する予定です。